「純粋建築」は、どこからどう見るかで違う。
その人の意を汲んで誕生する、ひとつひとつ
違う建築はお施主さんから見た「純粋建築」。
どういう人が依頼してきてもスタイルを変え
ないのは設計者側から見た「純粋建築」か。
「不純なもの」があるという前提で、初めて
存在する「純粋なもの」。
とすると、「真に純粋なもの」というのは・・・?
それは、「あるがまま」ということかな。
しかしそれで許されるのは「自然」だけか。
地球がひとつの生き物とすると、人の意識も
大きく見ればあるがままの純粋なもの?
「ドーナツを見ると、『無いドーナツの穴』
を考え始めてしまう」という友人Yととりとめない
話していて、頭のなかの部品の配置を本来の位置関係に
リセットできたような気持ちになった夕べ。
「お金が入って初めて財布なのにお金の無い財布は
純粋財布で・・・」なんかおもしろいなあとか話していて、
Y曰く、
「わしそういえば財布って持ったこと無いわ」
そういえばてあんた。
頭の中でおきているいろんなことを
「栄養」に生きている人間Y・・・・ええでええで。
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保管する暇もなく、通り過ぎていく場合は
必要とされんから(笑
そういう実用性の観点から財布もたんけど
実用性から離れたとき、それに純粋という
言葉が似合うなら、人はそもそも不純だし
それを恥じることはない筈。
純粋は概念の中にあり、自然は概念でなく
現にそこに存在しているものだし・・てな
感じで、内野は栄養分豊富(笑
頭の中で生みだしたものを、形にして外に
出す、創造的なことやってるだけのことは
流石にあるな(笑
めでたい!
ちょくちょくコメントください。